ファンタジースキーさんに100のお題

021. 奇跡


 身体の変化に気づいたのは、入浴の最中のことだった。
 突然の吐き気をこらえ切れずにうずくまり、ひとしきり咳き込んで。風邪でも引いたかな、これからまた踊りの仕事があるのに――排水溝を眺めながら口を清めて、再び浴槽に入った。
 不思議なことに、津波のように襲ってきた気分の悪さはもうどこかへ消え失せている。最近忙しかったから、と納得してティレニアは息をついた。
 青氷色の髪が湯の中で揺らめく。舞の仕事のときには珊瑚の、歌の仕事なら藍玉の髪飾りを挿すことにしているので、今夜は珊瑚だ。

(キミには真珠が一番似合う、ってあの御方は仰ってくださったけれど)

 藻のように揺れる髪先に指をからめて、うっとりと頬を染める。先夜この髪に触れていた男性は、真顔でそんなことを言ってくれる人だった。
 技芸を披露して宴席を賑わせる花珠(かしゅ)の娘にすぎない自分では、本来なら直接口をきくのも畏れ多い方。なのにあの御方はもう何度も二人きりで逢ってくれている。市井の恋人たちのように連れ立って出かけるのは、ティレニアにはまばゆすぎる夢のようだった。
 彼の真摯な眼差しと態度は初めて会った数年前からちっとも変わらず、頬や肩の輪郭から幼さの名残が消えた今でも、キミを王宮に迎えたいと言ってくれる。
 ゆくゆくは海人王となる青年と、親の顔も知らずに育った花珠の娘では、住む世界が決定的に違うということなど五つの子どもにだって分かるだろうに。

 幾度も味わい続けた感傷に沈みかけて、ティレニアは小さく首を振った。
 なんだか眠い。だるいような気もする。
 本当に風邪をひいてしまったのかもしれない。一座のみんなに迷惑をかけないうちに少しお休みをもらおう。ぼんやりと頭の片隅で考えながらティレニアは浴室から出た。


 しかし、翌月に入っても変調は治まらなかった。
 眠気とだるさが続き、身体全体を包む妙な火照りが抜けない。ときどき吐き気を催して、ろくに食事を摂れない日もある。

(わたし、どうしちゃったんだろう)

 王都青藍(せいらん)での滞在は他のどの街より長い。しばらく移動はないとはいえ、赤ん坊の頃から健康そのものだったティレニアにとって、この不調はひときわ深刻に感じられた。
 そんな様子を見かねたのか、一座の女衆は入れ代わり立ち代わりティレニアの臥せっている天幕を訪れて、細やかに世話を焼いてくれる。みな身寄りがなく、帰る故郷を持たないが、彼女たちの居場所はここだった。血の繋がりはなくとも、家族に違いなかった。

「ティレ姉、これ、チェルシー姉さん特製の野菜粥だよ」
「寝てばっかりだと逆によくないよ。少し散歩でもしてきたらどうだい?」
「あ、それとも風呂に入る? 宿の離れの浴場、うちの貸し切りだからいつでも入れるよ」
「早く治してアタシの舞の稽古にまたつきあっておくれよ、ティレニア。まったく張り合いがないったら」

 そんな声に囲まれ、姉妹に支えられて過ごすうち、ティレニアはようやく不調の理由に思い当たった。

(まさか、そんな――)

 認めないわけにはいかなかった。あの御方の、子どもを身籠っているのだと。
 途方に暮れた。
 どうしよう、なんと大それたことだろうと恐れ慄いているうちにも日々は過ぎ、さすがに聡い年配の女衆に感づかれてしまった。
 もとより隠し通せることではない。ティレニアの天幕を訪れた座長は普段と変わらぬ温厚さで、話せることだけでかまわないから話をしてごらんと言った。
 お腹の子たちの父親が、この国の世継公であることはまだ誰も知らない。
 ティレニアは戸惑いながらも、相手の素性以外をありのままに語った。

「そうか。ティレニアは、どうしたい?」
「わたしは……」

 産みたければ、この一座の中で産めることは分かっていた。
 興行先の土地の人といい仲になり、嫁いでいった姉もいる。逆に妻を一座に迎えた兄もいる。そして、片親で子どもを育てた花珠の者は、今までに数えきれないくらいいるはずだ。
 たとえ実の父親がいなくたって、一座のみんなが真っすぐに愛情を注いでくれるのは間違いない。ティレニア自身、物心つく前に拾われて、花珠の子としてこの大家族の中で育ったのだから。
 けれど、この子らは──

「ティレニアや」

 はっと顔を上げると、眩しげに双眸を細める座長の姿があった。もう何年も全く変わっていないように思える、慈しみ深くこちらを見つめるその目。

「座長……」
「今日はもうお休み。疲れただろう?」

 頭を撫でてくれたその掌は、記憶の中と同じようにあたたかい。
 その優しいぬくもりの下で、幼子だった遠い日のように手放しで泣き出してしまいたかった。

 クロノス様――あの御方には打ち明けられない。
 ただでさえ地位と立場に縛られて、父王との確執が絶えない彼の苦悩を、これ以上増やすことなど一体どうしてできようか。
 あの御方はただの貴族ではないのだから。いずれ正妃を迎えて海人王に即位する人が、なんの後ろ盾もない花珠の娘を妃嬪(ひひん)に列するなど、到底あってはならぬこと。王族の本流に下層の血が入ったとなると、他国に侮られる格好の材料だろう。
 国民の一人として断言できるのはそれだけだった。

 そして一人の娘として断言できるのは、懐妊を打ち明けたなら、彼は自分を王宮に迎えるために手を尽くすだろうということ。

(わたしたちは違う海流の中にいるんだって、最初から分かっていたのに)

 掌をそっとお腹にあててみれば、小さな命への切実な愛おしさがこみ上げてくる。
 他の何にも代えがたい光が、今この身体に宿っているのだ。

(……ごめんなさい、クロノス様)

 もう、逢わない。
 哀切さを帯びた決意が、胸の奥底に沈んでいった。


 深い追求をすることなく、座長はティレニアの意向を受け入れてくれた。
 似たような経験のある女衆は以前にも増して細やかな気遣いを見せ、事情に頓着することなく世話を焼いてくれる。
 そのおかげか、あれほど戸惑ったのが不思議なくらいティレニアの心は凪ぎを取り戻していた。
 青藍を発つことになったら必ず連絡するという約束を放り出し、黙ったまま姿を消した自分を、あの御方はほんの少し憎んだかもしれない。それ以上に、さぞかし物寂しく思っただろう。
 分かってほしい、などとはとても言えない。ただ忘れてくれればいいと願った。女の身勝手だと自覚していても、そう願わずにはいられなかった。
 生まれてくるのは双子だろうか、三つ子だろうか。あの御方の子どもたちを宝のように育てたい。


 *


 青藍から遠く離れた北の街で、ティレニアは産み月を迎えた。
 季節は月の冴え渡る秋。
 身重のティレニアを気遣って、地元の豪商人が産婆をつけてくれた上に、一座の中には出産経験者が何人もいる。心細さを噛みしめることもなく、心静かに来るべき日を待っていればよかった。

 そして、やがて。

 「おや、まあ……」と言ったきり絶句して、産婆の手がとまる。
 難産だった。身体中が熱い。内側から発火する錯覚さえ覚え、苦しみの数時間が果てしなく長く感じられた。
 朦朧とする意識の中で、産婆の異変を視界の端にとらえながらティレニアは悟った。
 生まれたのは双子でも三つ子でもない。産屋に響いた泣き声は、ただひとつきり。海人にはひどく珍しい、独り赤子。

 衝撃を受けなかったはずがないのに、立ち会ってくれた姉たちはすぐ我に返ったようだった。彼女らが手際よく赤ん坊を清め始めても、ティレニアの息は乱れたまま一向に整わない。
 お産とはこんなにも苦しいものなのか。目はかすみ、言うことをきかない身体がもどかしい。浅い呼吸を繰り返しながら、懸命に我が子の姿を求めた。
 生まれてきたばかりの赤ん坊は、それこそ火がついたように泣いている。大粒の涙をこぼし、無心に声を上げて。

(わたしの赤ちゃん、元気に泣いてる)

 産声は、小さな命が生きていくことを選び取った証し。いつしかティレニアは堪えきれずに頬を濡らしていた。
 なんて一途に、怖れげもなく生まれてきてくれたのだろう。
 なんて尊い……愛おしい子。
 姉たちに支えられながら腕に抱いた瞬間、緩んだ涙腺はもうどうにもならなくなった。
 澄んだ涙をためて見上げてくる蒼氷色の瞳。脳裏に面影が翻る。懐かしい色。色褪せぬ想い。
 優しく自分を見つめてくれた人と、同じ色の双眸だった。


 男の子につけられた名前は“エーギル”。
 その日のうちに名づけたティレニアは、以来かたときも傍を離れようとせず、祈るように我が子を慈しんだ。
 別れが訪れる日まで、全力で愛情を注ぎ続けた。

 ──この子はわたしの宝。この子を授けてくださった奇跡に感謝します──


イラスト:こひ様