043. 妾腹の王族 (2)
その後もアスランの探険熱は冷めず、旧書庫以外にも、ひなびた小部屋などでギュルシェンと鉢合わせることが何度か続いた。
最初は警戒しているのか怖々といった様子で口数が少なかったものの、次第にぽつぽつと言葉を交わすようになっていった。
彼女はいつも一人きりだった。
衣食住の世話を焼くはずのお付きの女官もおらず、学問や楽器もろくに習っていない。後宮の端に殺風景な自室が与えられているものの、居心地はあまり良くないらしかった。
アスラン以外の皇族とはまともに会話したことがない、と彼女は言う。
アスランは不思議でならなかった。ギュルシェンは皇女だというのになぜこれほど不当な扱いを受けているのか。
他の姉妹ときたら、日がな一日浴場を使い、化粧に凝り、弦楽器やら詩吟やらを気紛れに習い、寄ると触ると小鳥のようにおしゃべりばかり。観月の催しでもあろうものなら取り巻きを引き連れて華やかに装うことに余念がないのに。
全てにおいてギュルシェンの暮らしぶりとはあまりに違う。
母親がいないから、だろうか。
ギュルシェンを産んだ女性はどうやらずっと昔に亡くなったらしい。
『誰にも言わない』と約束した以上、自分の母や年長者たちに訊ねることはできなかったが、彼女の言葉の端々からなんとなく悟ったことが多少はあった。
彼女の母親が外国の人であったこと。身分が低かったこと。
ギュルシェンは皇女と認められ後宮の片隅に居室を与えられたが、ほとんど誰からも見向きもされずに過ごしてきた、ということ……。
ある日、厨房からもらってきた菓子を二人でかじりながら、アスランは新しいほうの書庫へ行かないかと誘ってみた。
めまいがしそうなほどの蔵書量なのだ。彼女が気に入る本もきっと見つかるだろうし、遠い異国のことや、はるか昔の出来事などが分かりやすく記された書物もある。図鑑や絵本だって選び放題だ。
彼女は目線を伏せたまま首を横に振った。とはいえ、全く心が動かなかったわけではないらしい。そんな気配が伝わってきて、アスランは少しばかり気をよくした。
では別の場所ならば、と口を開きかけた、その時。
いきなり入り口から声が割り込んできた。
「アスラン様! そこにいらっしゃいますね!? このようなところに出入りされてはお召し物が汚れてしまいます……」
年配女性の、嫌になるほど耳に馴染み深いお小言の声。
しまった、見つかってしまった。厨房の者に菓子など頼んだからか。
アスラン付き女官は無遠慮に踏み込んできた。部屋の奥に座っていた二人を見つけて一瞬動きがとまる。
「長春花の……?」
ギュルシェンに向けられた眼差しが、アスランの胸を鋭く衝いた。
“長春花の局”はギュルシェンの部屋に付された名だ。もとは母親の居室だったのをそのまま譲り受けたのだという。
名前よりも先に居室の名が出てくる。それが一体どういうことか、頭で理解するよりも先に、感情がひどく刺激された。
案の定、女官は彼女におざなりな目礼を送り……それだけだった。頭を垂れるでもなく、挨拶の言葉すらない。
これで充分とばかりに近寄ってきた女官を、幼い皇子は睨み上げる。
「無礼であろう。皇女に対して」
「はい? ……いえアスラン様、この方は」
訝しげな顔から一転、無知な子どもを諭す表情を浮かべる女官。
アスランは声を張り上げてその言葉を遮った。
「ギュルシェンは皇女だ。私と同じ、皇の子なのだぞ」
隣で少女がはっと顔を上げた。赤みがかった柔らかな金髪が揺れる。
このとき彼女がどんな様子だったのか、女官と向き合っていたアスランには分からない。
ただ苛立たしかった。ギュルシェンの存在をごく自然に受け流し、聞き分けのない幼子を宥めるようにアスランを扱う年嵩の女官の対応が。これっぽっちも悪気のなさそうな、その態度が。
皇子──ジュムールを総べる皇の息子だから、周囲の皆は丁重に接してくれる。ならば同じく皇の娘である彼女が、これほど軽く扱われて良いわけがないのに。
不満をうまく言葉にできず、アスランの苛立ちは怒りへと変わっていく。
「またそのように癇癪を起こされて。母君にお伝えしますよ」
と言い置いた女官が去った後も気持ちは収まらなかった。
あの女官だけではない。他の兄弟姉妹や皇妃たち、下働きの者、出入りの商人、ギュルシェンの存在を忘れているとしか思えない父には特に、声を大にして訴えたかった。
初めての激情に呑まれていたのかもしれない。
ギュルシェンは終始、凪いだ湖面のように沈黙したままだった。
*
宮中の催し事の場に彼女が姿を現すようになったのは、そんな出来事があって以降のことだ。
きちんと姫君らしく装い、臆することなく背筋を伸ばしたギュルシェンは際立って美しく、独りで薄暗がりにうずくまっていた少女と同じ人物には思えないくらいだった。
皇妃らをはじめ周囲の反応は冷ややかだったが、彼女は媚びるでもなく、嘆くでもなく、微笑みを浮かべて凛と前を向く。
書庫でもたびたび見かけるようになった。ジュムール皇国の成り立ちや伝承、東域諸国の地理・文化などについての書物を次から次へと読み続け、さらに聞いた話によれば礼儀作法や詩吟の教示も受け始めたらしい。
二人きりでゆったりと過ごす秘密の時間はめっきり減ってしまい、正直に言うとアスランは寂しさを覚えたのだが、ギュルシェンがよく笑うようになったことが嬉しかった。
「今ね、『風が呼ぶ場所へ』を練習しているの。難しいけど、もうすぐ弾きこなせると思う」
彼女が特に熱を入れたのは奏楽の技を習得することだった。
それまでろくに触らなかった母親の形見である弓奏楽器を弾き、葦笛を吹く。後宮という場所柄ゆえに音楽の心得のある者は多いが、これほど短期間のうちに腕を上げた者はいないだろう。またたく間に上達し、通しで演奏できる曲目がぐんぐん増えていった。
長春花の局から流れる音色を聞いた後宮の者たちは口々に囁く。
「今まで大人しくしていたのに、急に妓女の子が目立ちたがるようになったわね」
「分相応という言葉を知らないのでしょう」
「延々と曲を奏でて、まるで何かに憑かれたようですこと。なにやら不吉ではありませぬか」
だが、ギュルシェンが皇の娘にふさわしい教養と立ち居振る舞いを身に着けながら成長するにつれ、誰にも相手にされない小娘の手慰みなどという揶揄は次第に立ち消えていった。
何を言われようが、蔑ろにされようが、彼女が誰に対しても柔和な微笑を絶やさず控えめな態度で接していたことが幸いしたのかもしれない。
数多の皇女の中には、庶子への冷遇や才ある者への妬みをあらわにする者もいたようだが、アスランが水を向けてもギュルシェンが弱音を漏らすことはなかった。
その代わり、ほんの時たま、さらりと棘のある言葉を口にするのだ。アスランと二人きりのときに限って。
「『神の恩寵』か。便利な言葉よね。政に携わる者がそこで思考停止してしまうのはどうかと思うけれど」
こうした皮肉めいた物言いも、表情も、アスランだけが知っている彼女の一面。
怯えた小動物のようだった初対面の印象は根強かったが、何年も経つうちに分かってきた。
ギュルシェンは健気に咲く野の花のようであり、すっと伸びた芯ある若木のようでもあり、そして同時に、ただ可憐で柔いだけの娘ではないのだと。
彼女の物事を見る目は厳しいが、そのぶんだけ己に対しても客観的で、辛辣だった。
母親である皇妃や女官たちがいくらギュルシェンを厄介者のように厭っても、アスランにとって彼女はすでに後宮の中で最も近しい存在となっていた。
密かに尊敬の念すら抱いているのだ。
誰にも褒められずとも勉学に打ち込む真剣な横顔。祈りの唱句を朗誦する清雅な声。率直な感想を打ち明けてくれるときの親密な空気は他の何にも代えがたい。
次第にアスランは意識して皇子らしく振る舞うようになった。ギュルシェンの影響が大きいことは否めない。気恥ずかしいので面と向かって言えはしないけれど。