043. 妾腹の王族 (3)
十代半ばになる頃、慣例に従ってアスランは後宮を出て、隣接する宮城へと住まいを移した。
それでも定期的に母親のご機嫌伺いに後宮を訪れるので、皇妃の居室から辞去した後、ギュルシェンと中庭に面した明るい露台で共にお茶を飲むことが多かった。
隠れ家のような小部屋で言葉を交わした子ども時代とは違ってきてしまったが、今ではもう直に咎められることはない。ただ奇異の目で見られるだけだ。
庶子などに肩入れして外聞が悪い、皇子ともあろう者が──といった呆れ混じりの陰口も未だに聞こえてはくるものの、アスランは放っておいた。言いたい者には言わせておけばいい。
ギュルシェンの髪はあの頃より艶やかに長く、くつろいで腰掛けていても凜とした雰囲気が薄れない。
蝶よ花よと慈しまれた結果、山々より高く育った気位を持つ他の皇女たちとは、もはや眼差しからして一線を画していた。
皇族の美質をこれほど備えた人を、どうして皆は認めてくれないのだろう。
その筆頭は父皇である。
皇陛下は、後継者候補である皇子たちのことは多少なりとも気にかける。有力な後ろ盾のある皇妃と、その所生の子らに対しても、通りいっぺんながら折々の下賜をする。
だがギュルシェンだけはいつも素通りだった。
後見人のない、貢ぎ物として差し出された女から産まれた下賤の子。異国の子。
皇国に生まれ育ち、外国どころか後宮から出たことすらない娘だというのに。
──貴きも賤しきも、人はみな、神の赦しなくば天上の国へは昇れぬと教典は云う。神のみが真の主権者であり、皇は地上における神の使徒であると。
ならば、皇の前では……神の前では全ての者が等しく無力な“赦しを請う者”ではないのか。
正嫡ではなくともギュルシェンが皇の子であることに変わりはない。人一倍、敬虔な国教信徒でもある。
なのに、なぜ。
言葉にしがたい憤りは砂塵のように心の片隅に降り積もっていく。
普段の彼女は朗らかに笑ってばかりで、その微笑みが一層胸にこたえた。
やがて時は過ぎ……ギュルシェンは異国へ嫁ぐこととなった。
ある日唐突に皇の執務室へと呼び出され、皇女として政略結婚を命じられたのだという。
アスランは憤慨した。
何をいまさら。ずっと放っておいたくせに政治の駒になれとは、我が父ながらなんとムシの良い。恥を知れ。
皇も皇だがギュルシェンもギュルシェンだ。せめて、いつものような切れ味鋭い皮肉のひとつもお見舞いしてやればよかったものを。
「初めて名前を呼んでもらえたのよ」
小声で嬉しげに語る彼女は、どこまでもひたむきだった。
そんな姿を見てしまってはもはや何も言えなかった。
この国を離れたほうが彼女は幸せになれるのかもしれない。
「アスラン、ありがとうね」
喜びも悲しみも、切なさも、誇りも、全てが溶け合って白皙の顔を美しく彩っている。
そのとき間近に見た表情を、声を、仕草を、自分は決して忘れないだろう。痛いほどの予感がアスランを貫く。
彼女の微笑みはアスランに鮮烈な痕を残したのだった。
*
思い出は美化されるものだという。
彼女と過ごした時間が思い出に変わるほど時が経てば、その頃に思い返す彼女の姿は実際よりも煌びやかに飾られているのだろうか。
少なくとも、別れ際に微笑んでいたあの彼女は、いま目の前に横たわる彼女よりも格段に美しかった──
ぼんやりとした物思いが脳裏を占め、一向に現実感が追いついてこない。
手足の感覚も鈍く、歩き慣れた通路がまるで雲の階段のようだ。透明な膜を通して見る風景にも似た乖離感。
突きつけられた現実を、全身が拒絶しているのだろう。
アスランが数か月ぶりに目にした姉は、見るも無惨に変わり果てていた。
ざんばらに断ち切らた赤金色の髪。ひび割れた唇。落ちくぼんだ眼窩を閉ざされた瞼が覆っている。
目をみはるほど白かった首は無数の傷跡によって変色し、赤黒い首飾りを巻かれたような有様だった。
簡素な柩の前にひざまずいて手を伸ばす自分を、もう一人の無感情な自分が頭上から眺めているような気がする。
触れた頬は、ひどく冷たかった。
体温などとうに失われ、肌には張りも弾力もない。水分の抜けかけた亡骸。
砂漠よりも、海よりも、決定的な隔たりがそこには在った。
ギュルシェンを喪ったのだとようやく理解できたのは、人目を忍ぶような侘しい埋葬が済んだ後のことだった。
国家間の友好の架け橋となるはずだった花嫁。相手国に拒まれ、その命でもって戦火を呼んだ。
日々の営みと共に神への祈りを捧げながらアスランは思う。彼女の魂は迷わずに天上の国へと昇れただろうか、と。
そして希う。赦しを。慈悲を。
彼女を抱き寄せる神の腕が、どうか優しいものであるように。
*
──かつて、敗戦国から降伏の証しとして皇国に献上された美しい女がいた。
本来ならば王族筋の女性が皇の妃として輿入れするところだが、激しい戦火により適齢の王侯女性が生き残っていなかったため、見目麗しく芸事に長けた楽師の娘が捧げられたのである──“献上品のひとつ”として。
彼女は皇の傍らにひととき侍り、やがて一人の娘を産んだ。
母親の命と引き換えに誕生した私生児は、取るに足らぬ存在として後宮で冷遇された。
皇国では身分の高い男が複数の妻を娶ることはごく当たり前の風習だったが、だからこそ正式な婚姻を結ばずに側に侍る妾女への風当たりはきつく、そうして生まれた庶子は厄介者としてなおのこと蔑まれる。
皇の血を引いていても同様だった。“妓女の子”“献上品の娘”と軽んじられたまま少女は成長していった。
やがて彼女のもとに政略結婚が舞い込む。妾腹の皇女は静かに受諾し、文化も生活水準も全く異なる遠国へ、粛然と嫁いでいった。
だが婚儀からいくらも経たないうちに、彼女は物言わぬ骸となって故国へ送り返されることとなる。
皇国に激しい反感を抱く強硬派の犯行だった。
面目を潰された皇国は即座に報復戦争を起こす。勢いのままに相手国を侵略し、屈服させ、完全に併呑した。
期せずしてジュムール皇国の版図は大きく広がった。
その陰で、戦の嚆矢となった皇女は密やかに葬られ……
時が過ぎた現在、その面影を偲ぶ者はほとんどいない。
END