食
その日、私は初めて人を殺めた。
現代日本の法律が定めている義務教育の、最終年。十四歳の秋。うすら寒い奇妙な天気の日だった。
忘れはしない。自分の振り下ろした錐刀が、拍子抜けするほどあっさりと男の胸を貫いた瞬間の、あの独特の感触。
これまで生きてきて、他人を殺したいほど憎んだことは──ない。幼い日、私から永久に肉親を奪い去った連中に対してすら、殺意を抱いていなかったのだから。
それでも私は、一人の人間の生命を、未来を絶ち切った。
男は、歌舞伎町の中でも特に危険な界隈を根城にするチャイニーズマフィアと浅からぬ関係を持っており、区内の子どもの間に出回る廉価な薬物の売買ルートを一手に握っていた。
表の世界の法律や権勢では手出しができなかった。なにしろ、猛毒の蛇が無数に潜んでいると分かり切っている藪だ。あえて手を突っ込んでみせるほど、日本の警察機構は果敢でも無謀でもなかった。
──咎人を討て。
ヒイラギはそう言った。
闇の力に守られて、正攻法では一指触れることすら叶わない連中を、暗中にて狩る。濃霧に紛れて跳躍し、闇に乗じて裁きの刃をふるう。
すべてはヒイラギの『望み』のために。
それが私の役目。存在意義。
──人殺し!
誰かが責め立てる。血糊のしたたるこの手を見て。
──おまえは狂っている!
誰かが蔑む。自ら汚濁に飛び込むこの姿を見て。
──こんなの許されるはずがない!
誰かが激昂する。もはや動かぬ骸を見て。
胸が、詰まる。息ができない。血の臭い。血の臭い。血の臭い……
アノ男ハ
生キテイテハ
イケナカッタノ?
震える掌を見つめても、そこには何もない。脳裏に焼きついた疑問の答えも、赤黒い汚れすらも、すでにない。
気持ち悪い。強烈な嘔吐感が身体中を駆け巡り、頭の芯が溶けていく。
霞がかった意識の片隅で、任務前に何も食べていなくてよかった、と思った。
人を、殺す。そのために当代随一の闇技術者に師事し、腕を磨いてきた。
法に従い、法に守られている人間には、決して理解し得ぬであろう『現実』。
私は罪を背負ったのだ。血の臭気と猛烈な吐き気は、きっと魂に烙印が刻まれた証し。二度とは消えない罪のしるし。
熱いシャワーを頭から浴びても、浴槽の湯に半身を浸していても、胃のあたりを中心に巣くった不穏な気配はいっこうに薄れない。呼吸が乱れ、思考は空転する。
精神面の補強が、まだ足りないのだろうか。
けれども任務そのものは完璧だった。どんな仕事でも冷徹にこなす“鋼鉄の暗殺者”に、見事なりおおせることができた。
任務さえ過不足なく手がけることができるならば……それでいい。たとえ武装を解いたあとに坩堝の只中ような苦しみが待っていても。
純粋に、濁りのない瞳で獲物を仕留めるサバンナの肉食獣のようには、なれるはずがないのだから。
きっと私は今後一切、暗殺の前後に飲食しないだろう。
こうして、私──エーデルワイスの初暗殺は完遂されたのだった。
END
【衣食住】3のお題