異端者たちの夜想曲

2:林原将 (1)


 自分の部屋へ戻ると、将はソファベッドに身を投げ出した。
 顔を埋め、思い切り目を閉じる。脳裏にはまだ生々しい血の臭いが残っていた。
 胸が苦しい。直接刃物を振るったのは自分ではないというのに、なぜこれほど心が重いのだろう。まるで鉛でも飲み込んだかのようだ。
 全身にのしかかる罪悪感。嫌悪と倦怠感。暗殺任務の後はいつもこうだった。必要以上に陽気に振る舞って、鎮まらない動悸に気づかないふりをする。そうしなければ、とても神経が保たないのだ。

(ミッションでは、オレらの出る幕なんてほとんどないのにな)

 “夜刀”の仕事の中心である暗殺作業は『ミッション』と呼ばれる。ミッションの準備と後始末を含んだ全ての過程が、将たちに与えられた任務である。
 とはいえ、立案から事後処理までの大部分を手がけるのはエーデルワイスであり、将や悠二は現段階では補佐役に過ぎない。つまり、実際に人を殺めるのはいつも彼女の仕事だった。
 彼女の心理的負担は、自分とは比べ物にならないだろう。あの少女は、一体どうやってこの最悪な気分をやり過しているのだろうか。将には、血塗れの情景を忘れようとするのが精一杯だというのに。


 *


 淡いまどろみの中で、将は思い出す。
 父、母、そして姉。かつて家族と呼んでいた連中。今はもう遥か遠くへと過ぎ去った、奴らとの忌まわしい日々のことを。

 『厄介者』。家庭内で、将はそう呼ばれていた。
 物心ついた時、すでに将は日常的に、侮蔑の言葉と嫌悪の視線とにさらされていた。
 父はことあるごとに彼に向かって目障りと吐き捨てたし、そのうち三回に一回は容赦のない鉄拳つきだった。七つ違いの姉は、父の暴挙を咎めないという手段を徹底的に駆使して、父親違いの弟への感情を表現していた。
 長年の不義の末に彼を産み落とした母親は、さすがに口に出しはしなかったものの、その表情には明らかな苛立ちがあった。
 父が自分を憎むのはまだ理解できる。妻が不倫相手の子を孕み、なおかつその赤ん坊を夫婦の子として出産したのだ。どんな男だって平静ではいられないだろう。
 だが姉にとって、自分は半分血の繋がった弟のはずだ。父親が違うとはいえ姉弟には違いないのに、彼女はさも疎ましげに将を見下すばかりで、決して笑顔を向けてはくれない。やがて進学を契機に、さっさと家を出てしまった。
 彼女は母親を激しく軽蔑し、不義の結晶である将を忌み、最後まで父親の味方だった。

 そして、頼まれもしないのに将をこの世に産み落とした母は。

「ああ、どうしてこうなってしまったの……」

 夫が幼い息子に手をあげる様を横目に、その女はただ運命を呪うだけだった。
 将がいくら助けを求めて手を伸ばしても、泣き暮らす彼女の耳には届かない。

 おとうさん、いたいよ。やめて。
 おかあさん、ねえ、たすけて。
 イタイヨ……ヤメテ……
 ダレカ、タスケテ……

 怯えた目をすれば「野良犬め」と殴られる。反抗的な表情をすれば「なんだその顔は」と蹴られる。
 幾度助けを求めても、誰にも取り合ってもらえない。将にとって、家庭は有形無形の暴力が渦巻く恐ろしい場所だった。
 将は耐えた。
 彼の存在を完璧に無視する姉が家を出たこと、彼の成長に伴って父親の暴力が減ったことなどがなかったら、果たして耐えきれたどうか怪しいけれど──いや、耐えたことに何か意味があったのかすら判然としないものの──ともかく将は耐え忍んだ。

 転機は唐突に訪れる。
 将の生き地獄のような生活は、十四歳を迎えたある冬の日、ついに終止符を打つこととなる。


 *


 暮れも押し迫ったその寒い日、父は朝から家にいた。
 いつもの出勤時間はとうに過ぎているにも関わらず、強い酒気と呪詛めいた愚痴とを撒き散らしながら居間に居座っている。
 そんな父の様子から、敏感に不吉なものを感じ取った将は、誰にも気づかれないように家を滑り出た。自宅では将に注意を払う者など存在しない。抜け出るのはひどく簡単だった。

 冬の空気は心地良い。吐息は白く染まり、確かに彼がそこに在るのだと教えてくれる。
 冬休みに入ってからというもの、将は一日家にいたためしがない。彼にとって自宅は、苦痛を与えられる場でしかなかった。だからその日もいつも通り、陽が沈んで随分と経ってからようやく帰宅した。
 母は勤めから戻っていないようで、家中が真っ暗である。
 父は、まだ居間にいた。だが、闇の中から漂ってくる酒と煙草の臭いは朝の比ではない。今までずっと飲み続けていたのは明らかだ。
 将は父に気づかれないように二階の自室へ行こうとした。何があったか知らないが、関わり合いにならない方がいいに決まっている。冷え冷えと考えながら、階段に足をかけた、その瞬間。

 天井がぐるりと回って、頭の上から落ちてきた。

 何が起こったのか、将は目を開ける前から理解していた。むせかえるような酒気。煙草の臭い。誰かが自分を見下ろしている気配がする。

「お前……お前さえいなければ……」

 力任せに引き倒されたのだ。父に。
 したたかに打ちつけた後頭部が鈍く痛んだが、それどころでははない。なぜなら廊下に倒れ込んだ将を見下ろす父は、とても正気の顔色ではなかったから。

「お前、お前は……」

 一言ごとに濃度を増す憎悪。荒くなっていく呼吸。父は顔中を歪めて将を眺めていた。瞳の焦点は定まっていない。だがそれでも、激情に曇った虚ろな眼差しをこちらに向けている。

「お前のせいで、何もかも……」

 毛細血管が切れたのだろう、白眼の部分が赤く濁っている。その悪鬼のような眼と視線が合った刹那、将は直感した。
 殺される。
 将は、目を逸らすことができなかった。まばたきすらせず、父の腕が自分の首へと伸びてくる様を、ただ見つめていた。

「う、ぁあ、アあああぁアァッ!!」

 父の手に決定的な力がこもるより、一瞬だけ速かった。
 首を絞めかかる父親を力の限り払いのけ、将は勢いもそのままに玄関から外へと転がり出る。
 振り向きもせずにひた走った。もつれそうになる両足を、無我夢中で動かし続けた。