異端者たちの夜想曲

2:林原将 (2)

 どれくらい経ったのだろう。
 ふと気がついた時、将は見知らぬ夜道に倒れ込んでいた。全力疾走のせいで破れんばかりだった胸の動悸も、すでに治まっている。

(たすかっ……た、のか……?)

 将はこわごわと辺りに視線を走らせた。周囲にあるのは、ただ深い静寂だけ。半身を起こして見上げた夜空には、冬の星座が裾を広げていた。

(……ああ……)

 思わず目元が潤んだ。もう、自分を追い詰める者は誰もいない。身を切るような夜気にさらされながらも、将は心の底から安堵した。

「おい、どうしタ。大丈夫カ?」

 呆然と座り込んでいた将は、背後からかけられた声に仰天した。押し殺した悲鳴を上げてから、しまったという顔でおそるおそる振り返る。
 声の主の方でも、予想以上に大げさな反応があったので戸惑ったらしい。少し躊躇していたが、結局近寄って再び将に話しかけてきた。

「大丈夫カ?」

 しゃがみ込んで将の顔色を確かめたその男は、日本人ではなかった。東南アジア系かな、と将はぼんやり思った。
 後で分かった話だが、男の名はルソン。フィリピン人だという。
 ルソンはからりとした表情がよく似合う、気さくな青年だった。少なくとも将はそう感じた。自分だったら、

「よかったラ、ひとまずうちに来るカ?」

 などと言って、素性の知れない相手を抱き起こしてやったりはしないだろう。
 将は即答せず、相手をまじまじと見上げた。言葉の真意を図りかねたのだ。
 それを、言葉が通じなかったのかと勘違いして、ルソンはもう一度繰り返して言った。ややぎこちない日本語だが、聞き間違えようはない。

(なんでオレなんかに構うんだ?)

 将は、にわかには信じられなかった。
 どう背伸びしても十代半ば以上には見えない少年が、こんな時間に道端で行き倒れていたのだ。訳ありだと気づいたはずなのに……
 なのに、それでもルソンは微笑んで手を差し伸べてきた。

“一緒に来るカ?”

 凍るような寒さの中。これが将とルソンとの出会いである。
 白い歯を覗かせたこの時のルソンの笑顔を、将は後々まで忘れることがなかった。


 *


 それから、将はルソンのアパートへと転がり込んだ。
 着の身着のままの逃避行である。勧められるままついて行ったわけだが、ルソンという人物に関して分かっていることは、ほぼ皆無である。
 むろん不安がなかったわけではない。だが父親に殺されかけた後では、もうどうなってもかまうもんか、という気持ちが全身を黒々と支配しており、それが将を投げやりにさせた。
 父はこれ幸いと小躍りするだろうし、母は厄介者から解放されたと胸を撫で下ろすかもしれない。姉に至っては「そう。それで?」で全て済ませてしまうに違いない。

 おそらく世間的には家出とされるだろう。中学二年の生徒が行方不明ということで、学校側は多少騒がしくなるだろうが、それも一時的なことだ。一週間、一ヶ月、一年。時間が経てば、誰もが自分のことなど忘れてしまうだろう。林原将という名の人間など、最初から存在しなかったかのように。
 将にとっても、あの家庭という檻から自由になれるのなら、学校も何もかもが些末事にすぎなかった。

(十四歳のドロップアウト。なかなか凄いじゃないか)

 そんなふうに考えながら、外国人の多く住む猥雑な界隈にあるルソンのアパートで、将は日々を無為に過ごしていた。  将より一回り年上のルソンはまっとうな社会人ではなく、定時出勤とは無縁の生活をしていた。
 マフィアだの麻薬ディーラーだの、どうやらそういう危ない連中の間を泳ぎ回って、金を稼いでいるらしい。詳しい話を聞いたわけではないが、将の見る限り、その手法はそこそこ成功しているようだった。
 十四歳の将ではろくにアルバイトもできない。土地柄に見合った働き口は多くあるのだが、治安が悪すぎるから、物知らずの子どもなど食い物以外の何者でもないのだ。

「お前には無理ダ」

 と、日銭稼ぎを諦めるよう言い渡された。
 倹約を心がけさえすれば、ルソンの稼ぎだけでも男 二人の生活に支障はなかった。
 ルソンは外で稼ぎ、将は家事全般を担当。二人の生活は思いのほかうまくいっていた。
 将は、ルソンの周囲に漂う犯罪の臭いを嗅ぎ取っていたが、そこから逃げ出そうとは考えなかった。いつ壊れるかも分からないガラス細工のような関係だが、居場所があるだけあの家よりはマシだったから。

「お前と同じ年頃の弟ガ、故郷にいるんダ。お前を見てるト、弟を思い出ス。だから放っておけなかったんダ」

 そんなルソンの弁を、完全に信用したわけではなかったけれど。
 月日が経つにつれて、明るく気楽なルソンに、将は次第に心を開いていったのだった。


 *


 春の息吹が肌に感じられるようになった頃、ようやく将は落ち着いて思考を巡らすようになっていた。
 年末に起こった、父との経緯についてである。

 あの家で、悪夢は日常生活そのものだった。将が今こうしているのも、もともと地下に渦巻いていたマグマが、何かのきっかけを得て地表に吹き出た結果に過ぎない。
 では、きっかけはなんだったのだろう。それまでは危ういながらも均衡を保っていた父の感情を、ああまで一気に追い詰めた、その原因は?

 ひょっとしたら、と将は考えた。
 血の繋がらない息子というスキャンダルが、周囲に広まってしまったのかもしれない。例えば父の職場で。
 それともあるいは、母が不倫相手とまだ通じていて、あの日ついに決定的な出来事が生じたのだろうか。

 他にも色々と考えたが、将は原因について考えるのを放棄した。結局どれも推測の域を出ないからだ。
 だいたい父にしても母にしても、理解不能なことが多すぎる。
 父は自分を裏切った妻とその子が憎いなら、さっさと離婚なり別居なりすればよかったのだし、母だって子どもができて困るのなら、それなりの処置をすべきだったのだ。十月も経過して赤ん坊が腹から出てくる前に、手を打つこともできたはずなのに。
 あの家庭は、矛盾と負の感情ばかりが黒々と渦巻いていた。早々に実家を見限り独立した姉は、おそらく正解だったのだろう。

 何はともあれ、家へ戻って父に問い質すことなどできないし、そのつもりもない以上、起きてしまったことを今更あれこれ考えても仕方がない。
 ──忘れるんだ。将は自分に強くそう命じた。後ろを振り返るより、今はルソンとの生活のことを考えるべきだった。

 ルソン。初めて得た、自分を庇護してくれる年長者。
 最初の数ヶ月は戸惑いと警戒でよく分からなかったが、半年、一年と経つうちに、ルソンの存在は将の中で徐々に大きくなっていった。
 ルソンという男は、ごく常識的な基準からいえば、決して真っ当な人間ではなかった。定職に就いて地道に働こうなどとは微塵も考えていないし、就労ビザも正当なものかどうか実に怪しかった。
 そんな男がなぜ自分を匿ってくれるのか、もちろんのこと将はその理由を考え続けた。
 なんらかの思惑があるのか。あるいは、単なる偶然と気紛れが互いに干渉し合った結果なのかもしれない。
 ルソンの思惑についても、将はさんざん推測を巡らせたのだが……やはり結局のところ、いまひとつ分からなかった。

 だが、ひとつだけ言えることがある。
 将に“世界の裏側”の存在を教えてくれたのは、確かにこのルソンだった。