2:林原将 (3)
共に暮らした二年間で、ルソンはたびたび酔って帰宅した。そんな時彼は、将の用意しておいたスポーツ飲料を飲みながら、よく言ったものである。
いわく、普通の人は日本を公明正大な法治国家だと思っているけれど、現実はそんなに単純ではない。光の届かぬ領域は確かに存在するのだ。自分みたいな人間は、その入り口付近をうろついて真っ当な奴を食い物にするか、おこぼれにあずかるのが精一杯だ──と。
ルソンの言うことがどうやら真実らしいと、その頃には将も薄々気づいていた。
今まで将は『スイッチを押せば電気がつく』というのと同じ感覚で、『罪を犯したら法の裁きを受ける』と思っていたが、実はそうではなかったのだ。
法は万能ではない。法とは、その効果が及ぶ範囲内においてのみ有用なのだ。
だからTVで報道される犯罪は、ほんの一部にすぎない。『表』で処理できることだけが一般大衆に知らされて、そうでない事件は闇から闇へと葬られる。それが世界の理なのだ。
「ま、月みたいなものだナ」
「月?」
「月ってのハ、いつも同じ側を地球に向けてル、って言うだろウ? だから地球にいる限リ、月の向こう側は絶対に見ることができなイ。
それと同じデ、『表』の世界で暮らしてる奴には『裏』は見えなイ。そういうことサ」
その話をした後、ルソンがいびきをかいて眠りについても、将はなかなか寝つけなかった。
脳裏には、ルソンの言った言葉が繰り返し響いている。
厳然と広がる暗黒世界。けれど大半の人は、その存在にすら気がつかない。
“Other side of the moon”。
将は空に浮かぶ月を見るたびに、その言葉を思い出すようになった。
*
季節は巡り、陽はまた沈む。
将がルソンと出会ってから、二年の月日が流れた。もうじき十六歳である。
もはや生家と完全に縁が切れた将は、毎日のように場末の飲み屋でバイトをして日銭を稼いでいる。ルソンに紹介されたところなので、店長は例によって少々怪しい中国系だし、客も男か女かよく分からないようなクセモノ連中が多いが、それなりにいいこともある。
最初のうちは皿洗いと掃除しかやらせてもらえなかったが、この頃では簡単なつまみを作らせてもらえるようになった。ウェイターをする時もある。仕事を任せてもらえるというのは、意外にもけっこう嬉しいものだった。
何より、忙しいのがいい。身体を動かしていれば、考えても詮無いことをあれこれ思い悩まずにすむから。
ふと将は考える。
たぶん自分には、こんな社会のエアポケットに逃げ込む以外にも、児童相談所みたいな公的な機関に助けを求めるという手段もあったのだろう。最近では虐待への社会的関心が高まっているから、なおのこと。
だが、これでよかったんだと確信している自分がいる。
事情徴収、手続き、一時保護、家庭裁判所。そんなのはまっぴらだ。もういいから、とにかく放っておいてほしかった。
(もう、いいんだ。アイツらのことは忘れよう)
少なくない苦味と共に、将の心は冷たく固まっていたのだった。
ルソンは相変わらず根無し草で、二年間で八度も引っ越した。
将は密かに「いつか追い出されるかもしれない」と思っていたが、引越しのたびに荷造りと荷解きを自分でするのを面倒がったのか、ルソンが将を途中で放り出すようなことはなかった。
そうして、一九九八年、師走の末日。将は十六歳の誕生日を迎えようとしていた。
*
分かっていた、はずなのに。
なのにオレは。
オレは……!
*
「……え?」
将は洗い物をする手を休めて、後ろを振り返った。
珍しく早めに帰宅したルソンは、民放の女子アナが喋るニュースを寝そべりながら聞いている。ピリピノ語の鼻歌が時折音程を外すことを除けば、実に穏やかな時間だった。
「だからナ、新しい商売を始めたのサ」
冷めた緑茶を飲み干して、ルソンは笑った。「笑顔も商売道具のひとつサ」と公言しているだけあって、ルソンの陰りのない笑顔は、人の緊張をほぐすのに絶大な威力を発揮する。将はそれを見る都度、自分には一生できない表情だと痛感させられたものだ。
「ふうん……どんな商売なの?」
ほとんど反射的に聞き返し、将は食事の後片付けを再開した。
ルソンはこのところ、やけに羽振りと機嫌が良い。どんな内容だか知らないが、仕事がうまくいっている証拠だろう。将の稼ぎもあるし、生活の心配は当面ない。これであと、いびきさえ直してくれれば、将としては言うことなしだった。
だから仕事の内容を訊いたのは、単なる社交辞令。興味があったからではない。
ルソンは楽しげに説明を始めた。
──この日この時、もしそれを訊かなかったなら、将の人生は全く違うものになっていたかもしれない。だが将は知るよしもなく……
ルソンの説明を聞き、将は二の句が次げなかった。
『新しい仕事』とは、つまりこういうことだ。
まず、ホームレスなどの戸籍を利用して、虚偽の婚姻や養子縁組を行う。次に、それを元に国民健康保険証や運転免許書を入手する。そうして得た身分証明書を使い、消費者金融から金を騙し取る。
「いい考えだろウ? 連中モ、good ideaダ、ってとても気に入ってるんダ」
ルソンは悪びれもせず笑う。彼の言う『連中』とは、在日フィリピン系マフィアのことだ。ルソンの目下の金蔓らしい。
「……そうだね」
将は最小限のコメントを残して、もうその話題は忘れたフリをした。なぜなら、どうしても思わずにはいられなかったから。
(オレを拾ったのは、戸籍に利用価値があるからなのか)
胸の奥深くから、黒い塊がぞわりと浮上してくる。
(そうだ。考えなくても分かる。当然だ)
ルソンのように暗黒社会に片足を突っ込んでいるような奴が、利益計算なしに子どもを拾ったりするわけがない。
(「日本国籍は売り物になる」って、前に言ってたじゃないか──)
ほどなくして、ルソンは高いびきをかき始めた。相変わらずだ。いつでもどこでもオヤスミ三秒。寝つきと寝起きがよくなければ、こんな生活は続けられないのだろう。
すっかり聞き慣れたその騒音をBGMに、将は再び心が冷えていくのを自覚した。
その日以来、将は自戒の念を新たにして生活するようになった。
いつ捨てられても、手酷く裏切られても大丈夫なように、心の冬支度をしたのである。
実の親が子を捨て、子が親を殺すような世の中だ。殺人、強盗、脅迫、窃盗、強姦……世界は悪意に満ちている。何が起こっても不思議ではない。
何度も自分に言い聞かせてきた。繰り返し、繰り返し。
油断しそうになったら、あの家で受けた仕打ちを思い出した。暴力をふるう父、自己憐憫に溺れる母、無関心な姉。将は生きていくために、心に防弾服を重ね着するしかなかった。
張り巡らされた鉄壁。その内側にいる限り、心が致命的に傷つくことはない。どんなことがあっても、受ける衝撃は最小限に食い止められる。