異端者たちの夜想曲

2:林原将 (8)


 将がサルビアと出会ったのは二〇〇二年一月。十九歳になったばかりの頃だった。
 そして“夜刀”のアニスとしての初任務は、同年十月。この九カ月の間、将はは何をしていたかというと、『研修』を受けていたのである。

 一介の世捨て人に過ぎない、それもまだ少年の域を出たばかりの若者を、少数精鋭を誇る暗殺班のメンバーに仕立て上げる。考えるまでもなく、それは容易ならざる過程だった。
 研修の初日、半ば拉致されるように東北のとある山寺に連れて行かれた将は、まず徹底した身体検査を受けさせられた。その結果、当然のことながらかなり身体が弱っていることが判明したので、第一段階は心身を健康に戻すことから始まった。
 朝は六時起床、二十二時就寝。食事は七時、正午、十九時と毎日定時にきっちりと栄養計算された食事が出され、十五時には軽食も振舞われた。適度な運動と研修記録の提出が義務づけられたが、その代わり、清潔な衣服と、やたら広い浴槽に悠々と手足を伸ばして入浴する権利とが将に与えられた。

 何といっても、やはり将はまだ若い。必要なものが必要なぶんだけ与えられると、衰弱していた身体は日に日に活力を取り戻し、それに伴い精神面も、少しずつではあるが回復の兆しが現れた。直接接する人数を、必要最低限に抑えられていたのが功を奏したのかもしれない。
 栄養士の資格と経験を持つ女性、寺を管理する男性、身体機能をチェックし、その回復を図る理学療法士。全員が五十代で、≪桜花≫の構成員だった。

 きちんとしたリハビリ計画のもと、日々は淡々と過ぎていく。
 三月の中旬には、将はほぼ健康体を取り戻していた。自発的な発言も増え、寺に住み込んでいる三人相手なら、かなり打ち解けて話ができるようにもなった。
 もっとも、生家を飛び出して以来、他人と目を合わせることに多大なストレスを感じるようになっており、それは未だ改善されていなかったけれど。

 桜も咲き乱れる四月初頭。半月に一度往診にやって来る医師が、外科的・内科的にも問題なしと診断したのを契機に、研修は第二段階へ入った。
 一日のうち、身体を動かすことに多くの時間が割かれ、将は心身を鍛えるための課題をいくつも課せられた。段階をつけて徐々に、しかし確実に、筋力トレーニングや長距離ランニングなどの重いメニューが増えていく。多少はキツかったが、同時になかなかやりがいもあった。

 それまで気づかなかったのだが、将は実のところ、目標ができるとそれに向かって猪突猛進できるタイプのようである。良い成果を出すと、食事係のおばさんが“ご褒美”におかずを一品追加してくれるのも嬉しかった。
 しかも研修場所は山奥の古寺である。将は人目を気にすることなく、地道に鍛錬を重ねることができた。

 そんな様子で、天気予報図に梅雨前線が広がる頃には、痩せ細って痛々しいくらいだった腕にはしっかりと筋肉がつき、全体的に将は引き締まった体型になっていた。
 瞬発力、持久力、筋力、走力。どれをとっても平均以上の数値を記録している。半年前の死者のような雰囲気はなりを潜め、控えめながらも闊達な立ち居振る舞いがそれに取って代わった。
 こうなれば第三段階突入に躊躇うはずもない。

 将の目覚しい回復の報告を都内で受けたサルビアは、次のように言ったという。

「ええ、わたし、見る目はあるつもりなの。バーゲンでも焦って変なの掴んだことなんて一度もないしね。彼は磨けば使い物になると思ってたわ。
 ……ただ、運動の成績は良くても、頭の運動の方はどうかしらね? それがちょっとだけ心配だわ」

 四百キロメートル離れた空の下からのサルビアの心配は、見事的中した。運動能力には優れていても、机に座って勉強することと将は、相性がよろしくなかったのである。

 将に課せられた次なる試練。それは、地下世界の常識を学ぶことだった。
 教師役を主に務めたのは、寺に住み込んでいる三人。現代日本の地下情勢に始まって、そこで暗躍する主な組織・団体に関する知識、『表』の世界との境目、大小の海外グループとの接点などなど。将が覚えるべきことは気が遠くなるほどたくさんあって、本人も何とか記憶中枢に刻み込もうとよく努力した。

 だが将の場合はどうにも丸暗記が苦手のようで、結局のところ、努力は報われないことの方が多かった。
 将の知能指数や、いわゆる学力が低いというわけではない。柔軟な思考には秀でているが、固有名詞や勢力分布図をそのまま覚え込むのが不得手なだけである。
 将を暗記作業と親友づきあいさせることを諦めた教師陣は、ひとまず最低限の情報だけを与えて、他は極力さらりと流すことにした。これは賢明な選択だったと言えよう。

 ≪桜花≫という組織について講義したのは、都内から陣中見舞にやって来たサルビアだ。
 さすがに自分が所属する組織のことぐらいきちんと理解しなければと思ったのか、将は終始ひどく熱心だった。全てを取り仕切る首領・ヒイラギを頂点に、その補佐役として二人の副首領。そして彼らの下に“夜刀”を含む四つの班。それが≪桜花≫の全貌である。
 “夜刀”は少数精鋭での暗殺担当。“風”は調査を担当し、“海”は情報収集、“焔”は破壊工作を受け持っている。
 ちなみにサルビアは首領秘書であると同時に、“夜刀”への指令伝達も兼任している、ということだった。
 説明を受けた後、将は何気なく訊ねた。

「ヒイラギってどんな人なんだ?」

 その問いに、サルビアは短く沈黙する。紅く彩られた唇をゆっくりと開くと、

「残念だけど、貴方にはそれを知る権利がないの。
 いえ、貴方だけじゃないわ。あの人の『表』の顔を知っているのは、組織内でもほんの一握りだけ。それに……知らない方がきっと貴方のためでもあるわ」

 とだけ言って、サルビアはそれきり質問を許さなかった。

『与えられた命令をこなしていればそれでいい。何も考えるな。何も知るな』

 冷然と宣告された気がしたが、もちろん将は何も口に出さなかった。彼女が駄目と言う以上、どう不平を鳴らしても詮無いことなのだろう。

「貴方より一足早く研修を終えた人が、数ヶ月前から“夜刀”のメンバーとして活動を開始しているのよ。貴方にも期待しているわ」

 そう言い残して、サルビアは去って行った。

 そして迎えた夏。研修はいよいよ最終段階へ入った。
 今後将に期待されるのは、“夜刀”として暗殺に携わること──である以上、武器の扱い方を習得しなければならないのだ。
 刃物は包丁すらろくに握ったこともないし、もちろん拳銃など見たこともなければ触ったこともないのだが、机に向かって分厚い資料を分析するよりはマシなはず、と自分に言い聞かせて、将は『特別講師』の到着を待った。

 その特別講師に関してサルビアが言うには、『ありとあらゆる闇技能のスペシャリストで、ヒイラギの信用も特に篤い、≪桜花≫最高の人材』。
 寺の三人に訊いてみても、全く同様の寸評が返ってきた。エーデルワイスという人物は、どうもかなりの有名人らしい。
 人食い熊のような筋肉男だろうか。それとも得体の知れない脱獄犯めいた輩だろうか。将は最前とは違った意味で緊張を覚えた。