異端者たちの夜想曲

3:月城雪 (1)


 自宅の玄関扉を閉めると、静寂が降りかかってきた。
 のしかかるような深夜の静けさを乱すのは自分の息遣いだけ。雪はそっと嘆息した。

 午前四時。世界は夜の帳に覆われたままだが、灯りを点けずとも不自由はない。暗闇に慣れた目には、玄関から続く間取りがしっかりと映し出されている。閉め切られた部屋は出かける前となんら変わらず、しかし空気だけが凝った濃度を増しているように思われた。

(血の臭い……)

 仕事を終えて独りきりになるこの瞬間が、雪にはたまらなく憂鬱だった。
 ミッション──標的を殺害する作業──中の緊張感から解放されると、後に待っているのは深淵に沈み込むような底無しの疲労感。
 今日もこの手で咎人を討ち取った。血に濡れた錐刀は丹念に浄めて厳重保管してあるが、まだ掌には胸板を突き刺した瞬間の感触がありありと残っている。
 革手袋に覆われた手を握り締めると、きゅっという音が漏れた。

(でも、後悔なんかしていない)

 ミッションは常のとおり完璧に遂げられた。そうでなければならない。≪桜花≫の暗殺班“夜刀”は、狙った獲物を決して逃さないのだから。ヒイラギの忠実な猟犬たることは“夜刀”の唯一絶対の存在意義であり、それに違うことなく今まで幾多の任務をこなしてきた。これからも変わるはずがない。
 エーデルワイスはヒイラギの懐刀。どれほど重い罪悪感に苛まれようとも、己が選んだ道を進むだけ。ヒイラギの爪牙となる──そう、自らの望んだ生き方を体現しているのだから。

 雪は拳を握り締め、沸き上がる嘔吐感を必死に堪えた。ひとたび任務に入ってしまえば『冷厳な闇技術者エーデルワイス』に撤することができる彼女も、標的を手にかけた直後に独りきりで味わわねばならない苦吟は避けることができなかった。
 呼吸をすると、まだ身体の中に血臭が残っているような気がする。気持ち悪い。胸が焼けるように軋む。身体の内側から爛れてきているのではないか、と思う。

 初ミッションから二年近く経つが、人を殺した後は大抵こんなものだった。眉ひとつ動かさずにミッションをこなせても、後から襲ってくる心的葛藤は色褪せることがない。むしろミッションを重ねれば重ねるほど濃くなっていく。
 濃い、濃い血の臭い。

(血の臭い……流さなきゃ)

 夢遊病者にも似た動作で玄関に施錠して、バスタブに湯を張り、着衣を脱ぐ。ミッション用の黒衣は肌の上をするりと滑り、影法師のように床に広がった。
 湯気に包まれたバスルーム。長い髪を念入りに洗い、身体を隅々まで清める。返り血を浴びるようなヘマをしたことはないが、それでも血の臭いが染み付いているような気がして何度も身体を洗わずにはいられない。
 掌にはまだ錐刀の重みが感じられるようで、しかし白い手のどこにも血痕などなくて……つい赤くなるまで擦ってしまう。

 掌を広げ眺めてみた。長年積み重ねた特殊訓練のせいで固くなった指先、任務の邪魔にならぬよう切り整えられた爪。どこから見ても闇に生きる者の手だ。
 この手で幾人の息の根を止めたことか。断ち切るばかりで生み出すということのできない手。感傷に過ぎないと分かっていても、やはり少し悲しくなる。
 今日殺したあの男は、どんな手をしていただろうか。ふとそんなことを思った。

 流れる湯煙。熱いシャワーを浴びて湯に沈むと、石鹸の香りが鼻先をくすぐる。
 吐き気はしばらくすれば治まると経験上知っていたが、今はまだ動けそうにない。また今夜も、こうして湯船の中で朝を待つことになりそうだ。

(ヒイラギ……)

 脳裏にただ一人のひとを思い浮かべながら、雪は胸を穿つ倦怠感に耐えるのだった


 *


 二〇〇三年四月。とある宵の口のことである。

「新しい仕事よ」

 “夜刀”の作戦会議室として使っている、とある新築マンションの地下一階。時間通りに現れたスーツ姿の美女──サルビアは、開口一番そう言った。
 五階建てのこのマンションは、悠二や将に与えられた住まいである。一般の人々も入居しているが、地下室へ入るには裏口に設置された暗証番号入力式のドアを通らねばならず、その存在は巧妙に隠されていた。

 “夜刀”は、この地下室で、サルビアを介してヒイラギの指令を受け取るのが常。だが今回は、前回の任務から一週間しか経っていないという点で、普段とは違っていた。
 彼らの仕事は『暗殺』。法的に手出しできない悪辣な犯罪者を狩ること。つまりは最終手段の行使である。そんな仕事の依頼がちょくちょく気軽にあるわけもなく、たいがいの場合は、地下組織や密売ルート等を壊滅させることで片がつく。
 つまり忙しいのは調査担当の“風”と破壊工作担当の“焔”であり、“夜刀”は≪桜花≫で一番暇なのである。それは過去の実績からも明らかだ。“夜刀”の活動は、平均して月に一、二度あるかないか。リーダーたる雪が、エーデルワイスの名で暗殺仕事を請け負い始めた二年近く前から、その頻度は一度も変わることがなかった。

 なのに、ここにきて死刑執行命令が頻発とは……。
 悠二と将は互いに顔を見合わせ、雪はつと何かを思い出したような表情を浮かべる。地下室に飛び交う無言の疑問符を受け取ったサルビアは、言葉を選びつつ説明した。

「……実はね、ここのところ、あちこちで不穏な動きが捕捉されているの」

 ≪桜花≫の情報網がその兆しをキャッチしたのは、先月半ば頃のこと。地下世界にひっそりと息づく≪桜花≫という粛清者を恐れてか、それまではおおむね目立たぬように努めていた咎人共が、なぜか突如大っぴらに活動を始めたのである。