夢想百題

020. 冥王 (2)


 そこまで考えたところで、ふとラグは顔を上げた。
「なにか?」
 部屋の入り口で人影が動いた。協会の制服を着た少女のような女性が、なおもためらった挙げ句、お盆を手におずおずと入ってくる。
「あの、お邪魔してすみません。お茶、いかがですか……?」
 たどたどしい口調、緊張にこわばる手元。そういえばこの子は配属されたばかりの新人だった、と思い出して、ラグはゆっくりと微笑んだ。
「ありがとうございます、いただきます。その袖机に置いてくださいますか」
「は、はいっ」
 絵筆を持っている最中は別として、柔らかな湯気をたてる香草茶を後回しにするような習慣はラグにはない。すぐ備え付けの流し場で手を洗って振り返ると、真正面から女性と目があった。
 途端に真っ赤に染まる彼女の頬。あの色を出すには何色を基調にしてどんな色をどのくらいの割合で混ぜたらいいだろうか、などとラグがとっさに考えてしまうほど、生彩溢れる好ましい色だった。
「あの、シュトーレン様」
「様はつけなくて結構ですよ。普通に“さん”で充分ですから」
「は、はい。すみません」
 貴族の称号を持つ生まれとはいえ、ラグは絵師としての意識の方がはるかに強い。夜会服などよりも絵油にまみれた白衣を心地よく感じるくらいだから、血筋に敬意を払われてもさしたる感慨はないのである。
 彼女は一瞬しゅんとしたが、すぐに気を取り直して見つめてきた。
「公族の方の絵を、修復なさっているんですよね? 少しだけ、見させていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。どうぞ」
 彼女の瞳がぱっと輝く。
 大公家の姿絵が、一般市民の目に触れる機会は限られている。まして原画となればなおさらだ。協会に所属するようになって間もない彼女が、修復作業前の冥王の絵を食い入るように見つめているのも、ごく自然なことだった。
「この御方は、冥王陛下?」
「ええ。十七代めの国主、グリッサンド大公陛下です。絵師はその当代随一と謳われたロイツ画伯。陰影のつけ方に特徴があるでしょう」
「ロイツ画伯、って、ここの奥の間にある太母陛下の絵を描いた方ですよね?」
 確かに、工房の奥にある聖母王リチェルカーレの絵画はロイツ画伯の手によるものである。
 ラグはにっこり笑顔になった。来たばかりにしてはよく勉強しているなという感心が半分、彼女の興奮した表情が微笑ましかったのが半分。
 そしてラグにつられて彼女も蕾が綻ぶように笑みを見せたものだから、二人は悪名高い貴人の絵を前にして、束の間、笑顔を交わし合うことになったのである。
「お邪魔して申し訳ありませんでした!」
 やがて、我に返った彼女がぴょこんと頭を下げ、出ていくのを見送って。ラグはお茶に口をつけながら、改めて肖像画に視線を置いた。
 流れるように輝く黄金の髪も、青空を封じ込めたとしか思えない繊細な瞳の色も、あの旧友にとてもよく似ている。
「冥王は頭痛のタネを焼き滅ぼして、幽王は一カ所にかき集めて箱へ押し込めた……」

 呟いて、窓の外を仰ぎ見る。
 今頃“彼女”は本宮で執務中だろうか。それとも花燭宮でお茶にしているかもしれない。あるいは彼女のことだから、外廷まで出て抜き打ち視察などしている可能性もある。
 お茶休憩だといい、とラグは願った。
 いま少しずつ描いている彼女の絵は、完成して年月が経とうともきっと修復士たちが補彩を続け、後世に伝えてくれることだろう。
 そのとき、一体どういった人物評が口の端にのぼるのか。そんなことに興味はなかった。ただ、写生のために先日会った旧友の顔色がひどく悪く、なのに本人がそれに頓着していないのが気がかりだった。
 むろん自分は政治的にはなんの役にも立たない。彼女の身の回りのことは女官衆が抜かりなく働いてくれるし、健康上のことに至っては生まれる前からの主治医が何人もいる。
 だから彼女に何かしてやりたくても、ラグにできることといったら、毎年の誕生日に彼女の絵を描いて贈ること、ときどき会って彼女の話を聞くこと、そして、決してそれを口外しないことくらいのものだ。
 次に会ったとき、彼女の頬も鴇色に輝いているといいのに。
 祈るような気持ちで、ラグは絵筆を手に取った。


END