夢想百題

024. あなたに会いたい (2)


 多くの陸上生物にとって、水中は生存不可能な死の領域である。長くても数分しか息が保たない。
 けれども世界に在る五つの種族のうち、海人種族ならば話は別だ。海棲の大型ほ乳類や獰猛な魚類を圧倒し、光の届きにくい深淵へと分け入り、大海原を自在に駆ける。水に愛された民。それが海人という種族である。
 最も古い歴史と伝統をもち、海と陸とを支配できる自分たちこそ世界に冠たるべきだ、という選民意識が強いのも人種的特徴だろう。
 大戦後、そうした国の玉座を父王から譲られたレアは、一見したところ政務をよくこなしていた。不本意な戴冠ではあったが、もともと王家に生まれた者として帝王学を仕込まれていたこともあり、臣下とよく協議するし、醜聞になるような私生活の振る舞いもない。
 歪みというものは、根が深くなればなるほど、たやすくは表層に出てこないのである。
 月日を経るにつれて、レアの抱いた妄執は密やかに募っていく。地下深くにひたひたと流れる毒水にも似て、狂おしい思考が如実に彼女の心を染め、蝕んでいた。
 しかし彼女の夫をはじめ、多くの周りの者は気づいていない。このときは……まだ。
 八年。生きる屍にも等しい王弟。年数をかけて縁を削り取られた防波堤は、今まさに決壊の瀬戸際であった。
「八年、か。早いものだ。あの幼子が立太子するとはな……」
 ある日、エーギルを謁見の間に呼び出した海人王は、虚空に視線を投げだしたままそう言った。
「八年。あの子は眠り続けたまま目覚めない」
 呟くように、歌うように。王の紅い口元に浮かぶ、笑み。
 珊瑚礁を思わせる青緑色の双眸には、複雑にねじれて濃縮されたいくつもの感情が、渦となって見え隠れしている。耳や首筋を彩る大粒の黒真珠よりもよほど際立つ、不穏な色を孕んで濁った瞳だ。
 エーギルは無言。冷たく動かぬ父親の寝顔と同様に、煮えたぎる憎悪に浸かった王の姿も見慣れていた。
(半身をもがれた痛みがどれほどのものか、俺には一生分からないのだろう)
 多胎出産が当たり前のこの国では、エーギルのように双子の片割れを伴わずに生まれ落ちた者を『忌み子』と呼び、不吉なもの不浄のものとして嫌う風習がある。
 庶子とはいえ、仮にも当時の王太子の息子であるエーギルが地下牢で幼少時を過ごし、出生が明らかにされないまま現在に至っているのは、すべて畏敬されるべき王家の風評を守るためだった。
 そしてクロノスが乱世に軍勢を率いて天人国へ侵攻した動機も、忌み子と蔑まれ地下牢に幽閉されている息子を憂えたから。子の自由を(あがな)うために、父は漆黒の軍服を纏って出陣したのだった。
「分かっているだろう……エーギルよ」
 玉座に沈み込んだ王の一瞥がエーギルに向けられる。静かな鬼気。陰惨な微笑が深まり、哄笑になる寸前で収縮して言葉へと形を変えた。
「時は満ちたのだ。今こそ仇を討つがよい。お前の、その手でな」
 王者に相応しい玲瓏たる声で放たれた命令は、剣呑で、禍々しく、破滅的ですらあった。
(天人国へ行け、と?)
 この日の昼、親書を携えた天人国からの使者が海人王に面会したことを、エーギルは思い起こした。かの国の世継姫の、生誕祝賀会を催すのだという。清雅な招待状だった。
 あのときの小さな女の子が、もうすぐ十五歳。成人に準じる年齢に達し、正式に王太子の名乗りを上げることができるのだ。そして月日が満ちれば中継ぎの現王から宝冠を譲り受け、正統なる天人王として即位するのだろう。
 とうに亀裂の入っていた海人王の心を、その未来図が決定的に裂いたに違いなかった。悲嘆と失意ばかりを映してきた目には、あまりにも眩しくて。痛くて。身の内を焦がして巻き上がる、黒炎の嵐──。
(天人の姫が立太子する)
 エーギルの遥かな記憶の中、ひとひらの羽根が風に舞う。
 今も耳に残る、あの幼い声。「一緒に行こう」と真っすぐに見つめてきた瞳は蒼穹の色をしていた。すべてを包み込むように柔らかい、蒼。
(会いたい……もう一度だけ)
 そう、思った。