夢想百題

032. 指輪 (1)



 まさに一閃。
 鮮やかに振り切った利き腕を胸元に戻して、葛葉(くずは)は鉄扇を閉じた。ぱちっ。いつもより苛立った荒い音が弾ける。
「少しは懲りたらどうなのじゃ。この粗忽者めが」
 吐き捨てる言葉といい睨みつける表情といい、睡眠不足のせいばかりではない不快感が、彼女の艶麗な姿に色濃くにじみ出ていた。
「わはははは! 不意打ちでも動じないとはさすがだなっ!」
 天狐の姫御前にまたしても突発的かつ一方的に挑みかかった挙げ句、一瞬で派手に吹っ飛ばされた鴉天狗──雲取(くもとり)は、それでもまったく悪びれずに茂みから身を起こした。無神経なまでの頑丈さだ。
「まだぴんぴんしてるぞ」
「妾の打撃をまともに食ろうたというのに……無駄に元気じゃのう」
 ほとほと呆れた葛葉は、傍らで同じく雲取に視線を向けている清白(せいはく)を見上げた。
 連れであるこの人間の青年も、しつこく絡んでくる鴉天狗をどうにかして追い払いたいと考えているようだが、妙案が浮かばないらしい。腰に佩いた愛刀の柄に掌を置き、げんなりした表情でため息をついた。
「正論を説いても駄目、食べ物で釣っても無駄、力づくで思い知らせようとしても懲りやしない、ときたもんだ。厄介なのに懐かれちまったな、葛葉」
「妾らに遊んでおる暇なぞありはせぬというのに」
「遊びとは失敬な。ワシはいつでも真剣だぞ」
 雲取の眼差しは心底楽しげで、面と向かって罵倒されてもどこ吹く風。それどころか、葛葉や清白が迷惑がって追い返そうとするたびごとに、ますます興が乗っていくようだった。
 鴉天狗は総じて自由気ままで、しかもあまのじゃくな気質の者が多いと聞く。このままでは本当に火明(ほあかり)の里までついて来てしまうだろう。
「もう良いからとっとと山へ帰りゃ。勝負なぞ何度やっても結果は変わらぬ」
「いーや、やってみなけりゃ分からないだろっ」
「ああもうっ……! 本ッ格的に物分かりの悪い奴よの!」
 苛立ちと嘆きの混ざった声を上げる葛葉と、無言でまたもやため息をもらす清白と。雲取はそんな二人の周囲を飛び回り、ひとりニヤニヤと笑うのだった。
「そんなに立ち合いがしたいのならば、妾が使命を果たすまでおとなしゅう待っておれ。さすれば存分に叩きのめしてやる」
「怨霊を封じるってんだろ? 非常事態ってやつだよな。だからワシも協力してやるってばよ」
 荒れ狂う祟り神なんてシロモノを放ってはおけないしな、などと言って鴉天狗はさも真面目な顔をしてみせるのだが、今までの言動が言動だけに、事の深刻さを理解しているとは到底思えない葛葉だった。
 この分からず屋を、一体どう言いくるめて追い返せばいいのだろうか。頭を抱えたい気分だ。
「おっ。なんだもう休憩か?」
「ええい、やかましい。誰のせいじゃと思うておる」
 清白がおもむろに敷物を広げ、葛葉はそこに腰を下ろした。雲取に悪態をつくのも忘れない。しかし座って休むでもなく、背嚢を探って次から次へと中身を取り出していく。
 急激な動作で雲取に応戦したので、背嚢の中がひどく散乱してしまったのである。
 荷は常に整頓しておくことが重要だ。いざという時とっさに目的のものが取り出せないようでは困る。旅を始めてすぐに清白から教えられたことだった。
 街道から遠く離れた森の中にも、春の柔らかな陽射しが差し込んでくる。雲取の棲んでいた山も平穏なものだったが、このあたりも怨霊の影響はほとんど見られない。気脈の穢れも感じず、澄んだ空気が心地良いほどだ。
 小鳥のさえずりが響く中、葛葉の手が器用に動いて荷を整えていく。
 携行食に竹筒、地形や集落を記した地図、着替え。特に整理が必要なのは、刑部姫が持たせてくれた路銀代わりの宝物類だ。珠玉や細工物といった、こまごました壊れ物が多いのである。
 雲取が物珍しげに宝物類を見ているのに気がついて、葛葉はにっこりと笑みを向けた。掛け値なしの、輝かんばかりの笑顔だった。
「よし、相わかった。この中から何かひとつくれてやる。じゃから今すぐ帰りゃ」
「帰らねーって!」
「何がよいのじゃ。清めの小刀か? 翡翠の勾玉に、白蝶貝の細工物もあるぞ。それとも指飾りかえ?」
「……指飾り?」
 ぽつりと問い返したのは清白である。
 雲取を相手に埒のあかない言い合いをしていた葛葉の掌、陽の光を受けてきらめく小さな指輪。まじまじと見つめて清白は首を傾げる。
「これってもしかして、刑部姫の私物じゃないのか」
 そっくり同じ仕草で葛葉も首を傾げた。確かにこれら値打ちのある品々は刑部姫が取り計らってくれたものだが……
「持たせてくれた宝飾品の中に、首飾りだの腕輪だのの装身具はほとんど入っていなかったからな。指飾りがひとつだけ出てくるなんて……こう、なんとなく引っかからないか?」
「むう。言われてみればそんな気もするのう」
 改めて眺めてみると、実に素晴らしい、存在感のある指飾りだった。うっとりするほどなめらかな黄褐色の宝石が、金の台座に楚々として乗っている。上品さと華やかさが調和した逸品である。
「ほうほう、こりゃまた見事なモンだな。大粒だぞ。なんの石だ? もしかして舶来物かっ?」
「さあて、な。俺はこういう宝石を見るのは初めてなんだよ。葛葉、分かるか?」