異端者たちの夜想曲

林原将 (4)


「ま、月みたいなものだナ」
「月?」
「月ってのハ、いつも同じ側を地球に向けてル、って言うだろウ? だから地球にいる限リ、月の向こう側は絶対に見ることができなイ。
 それと同じデ、『表』の世界で暮らしてる奴には『裏』は見えなイ。そういうことサ」
 その話をした後、ルソンがいびきをかいて眠りについても、将はなかなか寝つけなかった。
 脳裏には、ルソンの言った言葉が繰り返し響いている。
 厳然と広がる暗黒世界。けれど大半の人は、その存在にすら気がつかない。
“Other side of the moon”。
 将は空に浮かぶ月を見るたびに、その言葉を思い出すようになった。

──… * * * …──

 季節は巡り、陽はまた沈む。
 将がルソンと出会ってから、二年の月日が流れた。数え年で十六歳である。
 もはや生家と完全に縁が切れた将は、毎日のように場末の飲み屋でバイトをして日銭を稼いでいる。ルソンに紹介されたところなので、店長は例によって少々怪しい中国系だし、客も男か女かよく分からないようなクセモノ連中が多いが、それなりにいいこともある。
 最初のうちは皿洗いと掃除しかやらせてもらえなかったが、この頃では簡単なつまみを作らせてもらえるようになった。ウェイターをする時もある。仕事を任せてもらえるというのは、意外にもけっこう嬉しいものだった。
 何より、忙しいのがいい。身体を動かしていれば、考えても詮無いことをあれこれ思い悩まずにすむから。

 ふと将は考える。
 たぶん自分には、こんな社会のエアポケットに逃げ込む以外にも、児童相談所みたいな公的な機関に助けを求めるという手段もあったのだろう。最近では虐待への社会的関心が高まっているから、なおのこと。
 だが、これでよかったんだと確信している自分がいる。
 事情徴収、手続き、一時保護、家庭裁判所。そんなのはまっぴらだ。もういいから、とにかく放っておいてほしかった。
(もう、いいんだ。アイツらのことは忘れよう)
 少なくない苦味と共に、将の心は冷たく固まっていたのだった。

 ルソンは相変わらず根無し草で、二年間で八度も引っ越した。
 将は密かに「いつか追い出されるかもしれない」と思っていたが、引越しのたびに荷造りと荷解きを自分でするのを面倒がったのか、ルソンが将を途中で放り出すようなことはなかった。

 そうして、一九九八年、師走の末日。将は十六歳の誕生日を迎えようとしていた。

──… * * * …──

 分かっていた、はずなのに。
 なのにオレは。
 オレは……!

──… * * * …──

「……え?」
 将は洗い物をする手を休めて、後ろを振り返った。
 珍しく早めに帰宅したルソンは、民放の女子アナが喋るニュースを寝そべりながら聞いている。ピリピノ語の鼻歌が時折音程を外すことを除けば、実に穏やかな時間だった。
「だからナ、新しい商売を始めたのサ」
 冷めた緑茶を飲み干して、ルソンは笑った。「笑顔も商売道具のひとつサ」と公言しているだけあって、ルソンの陰りのない笑顔は、人の緊張をほぐすのに絶大な威力を発揮する。将はそれを見る都度、自分には一生できない表情だと痛感させられたものだ。
「ふうん……どんな商売なの?」
 ほとんど反射的に聞き返し、将は食事の後片付けを再開した。
 ルソンはこのところ、やけに羽振りと機嫌が良い。どんな内容だか知らないが、仕事がうまくいっている証拠だろう。将の稼ぎもあるし、生活の心配は当面ない。これであと、いびきさえ直してくれれば、将としては言うことなしだった。
 だから仕事の内容を訊いたのは、単なる社交辞令。興味があったからではない。
 ルソンは楽しげに説明を始めた。

 ──この日この時、もしそれを訊かなかったなら、将の人生は全く違うものになっていたかもしれない。だが将は知るよしもなく……

 ルソンの説明を聞き、将は二の句が次げなかった。
 『新しい仕事』とは、つまりこういうことだ。
 まず、ホームレスなどの戸籍を利用して、虚偽の婚姻や養子縁組を行う。次に、それを元に国民健康保険証や運転免許書を入手する。そうして得た身分証明書を使い、消費者金融から金を騙し取る。
「いい考えだろウ? 連中モ、good ideaダ、ってとても気に入ってるんダ」
 ルソンは悪びれもせず笑う。彼の言う『連中』とは、在日フィリピン系マフィアのことだ。ルソンの目下の金蔓らしい。