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Your Name (3)


 虜囚にした貴人は丁重に遇するのが本来の約定だが、捕らえた敵国の王族を軍事的・政治的に利用するのは乱世の常。
 まして法願使い狩りに目の色を変えている海人が見逃してくれるはずもない。いいように利用し尽くされて、最後には……
 皮膚が粟立ち、柔らかな羽毛がぞっと逆立つ。
 不吉な予測を振り払いたくて、思わず首を激しく振る。と、不意に翼の付け根が鋭く痛んだ。
 飛翔のための神経が集中している天人の泣き所である。痛打されたそこが熱を持ち始めているようだった。
 付け根を傷めてしまっては自在に飛ぶことが難しい。迷わず翼を狙って襲ってきたあの軍人たちは、それを熟知していたに違いない。手練れの小隊だった。
 天人国では有事の際、王侯貴族が陣頭指揮を執るのだ。王都の奥深くまであのような敵兵たちが侵入してきたと思うと、皆の安否がしきりに気遣われた。
 城で別れた両親や、将軍として出陣していった叔父は無事でいるのか。別々に退避した兄と従兄たちの行方は。明るく元気な乳母や、庭師のじいや、料理長や楽師長……様々な人の顔が脳裏をよぎっていく。
 自分は……あの人たちのところへ帰ることができるのだろうか。
 薄闇の中、時折大きく揺れる燭台の炎がルシファーの不安感をいたずらに煽っていく。
 増すばかりの圧迫感。頑丈な石壁に阻まれて外の物音は聞こえない。静寂と悪寒。
 敵陣のただなか、独りきり。置かれた状況を痛感すると、抑えきれない震えが身体中を薄絹のように覆っていった。恐怖と絶望の色が滲み出し、意識が黒く染められていく。
 ルシファーは見知らぬ寝台にうずくまり、己の身体を抱えて必死に耐えた。
(お兄様、助けて……)
 五つ違いの兄ルシフェルを脳裏に思い浮かべた途端。あ、と思ったときにはもう遅かった。
 敷布の上にぽつりと小さく透明な花が咲く。
 こぼれた涙の跡を指先でなぞると、ルシファーはついに心細い気持ちを堪えきれなくなり、かすれた嗚咽(おえつ)が漏れた。
 泣いてもどうにもならないのに。分かっているのに、どうしてこの熱い雫を止められないのだろう。
 抱きしめてくれた両親のぬくもりが、ただただ慕わしかった。
(帰りたい……)
 強く思った。
 このままここでじっとしていたら、取り調べられて素性が明らかになってしまう。となれば当然、海人側は公表するだろう。『我が手中に天人王女あり』と。
 国王の実子が囚われの身とあっては、海人の侵攻に激しく抗戦している兵士たちの士気に影響を及ぼすだろう。
 それに天人の国民性からすれば、捕虜にされた王侯女性、しかも子どもを捨て置くなど考えられない。無条件降伏を促され、父王が苦渋の選択を強いられることは必至。
 天人王族として、断じてそれだけは許せなかった。
 ならば……そう、こうして牢獄で震えているわけにはいかない。
 ルシファーは顔を上げた。
 脱走を謀るなどという見苦しい行為は王族の誇りに(もと)るかもしれないが、潔い虜囚となれば必ず母国を不利に陥れてしまう。
 生きて戻らなくては。
(こうして物が考えられるうちは、きっとまだ大丈夫)
 ふと己の思考が思いのほか冷静さを保っていることに気付いて、ルシファーは厳格な家庭教師の面々に感謝した。実年齢を上回る精神年齢を持ち得たとすれば、政治に携わる者としての自覚を物心つかぬうちから仕込んでくれた彼らのおかげだ。
(帰って、きちんと御礼を言わなくちゃ)
 目元を拭って寝台から降りたルシファーは、一度きつく瞳を閉じた。
 他国についての学習の時間に教わったことを思い出す。海人の場合、王族が戦地に立つことは皆無に等しい、と教師は言っていた。
 だとすると海人王マクリルやクロノス王太子、レア王女といった要人は自国内に留まっているはずだ。彼らの前に引き出されてしまっては手遅れである。
 訓練を始めたばかりとはいえ、異質な力を持った一族の血を引いているのだ。その力を上手く駆使すれば脱獄も不可能ではないだろう。
 問題は牢を破ったあと、無事に逃げおおせることができるか否かだった。
 こうなってくると翼を傷めたのが悔やまれる。自分自身を癒す法願は難易度が高く、相当の熟練を必要とするため得手ではないのだ。
 無理をして飛ぶか、走るか。警備兵が大勢いるであろうことを思えば、どちらも大変厳しい選択肢であった。
 そもそも、仮に普段どおり飛べたとしても、現在地と方角が分からないのでは困りものである。
 せめて外に出られれば星を読んで方角を知るという手段もあるのだが、実行しようにも、石壁の向こう側が建物の外であるならともかく、地下だったりしたら一苦労だ。