けれど、やるしかない。
すぐ傍に見張りがおらず、手枷を嵌められただけの状態という好機は、おそらくこの一度きり。脱獄を試みるからには、必ず逃げ切らなくては。
決意と共にルシファーが鉄格子に手をかけた、そのときだった。
(誰かいる!?)
そう遠くない場所、おそらくは隣接した独房から、小さなくしゃみが確かに聞こえたのだ。
ルシファーの顔が瞬時に強張る。息すら止めて身体中が硬直した。
自分では意外に冷静のようなつもりでいたけれど、実際は感覚が鈍っているのかもしれない。監獄内に他に人がいることにちっとも気が付かなかったなんて。
じんわりと驚倒が通り過ぎていくと、次に訪れたのは激しい緊張だった。
敵か、味方か、それ以外か。判断する材料は乏しかった。
海人側の牢に囚われていることを考慮すれば、十中八九、敵対している天人種族の者だろう、とは思う。だが一概にそうとも言い切れない。なんといってもこの時勢の、こんな場所なのだから。
恐慌に近い不安感が一挙に膨らみ、あっという間にルシファーの胸を覆い尽くした。潜めた息、乱れて脈打つ胸の鼓動、脳裏に鳴り響く警鐘。
ついに耐え切れなくなった。
「あなたは……誰……?」
震えた声音の誰何に、静寂が応える。
耳を澄まし、神経を傾けて。しかし返答はなかった。ルシファー同様に戸惑っているのだろうか。警戒しているのかもしれない。それとも何か企図があるのか。
相手の反応を求めて、ルシファーは辛抱強く気配を窺った。
やがて、あれは空耳だったのかとルシファーが疑い始めた頃。
不意に、物憂げに、その囚われ人は名乗った。
エーギル、と。
耳慣れぬ、まだ幼い少年の声だった。
天人の姫、法願使いの後継者、ルシファー。
海人王太子の実子、忌み子、エーギル。
こうして両者は出会った。
戦火のただなか、血と涙の途絶えることなき乱世の渦中。
簡素な燭台の他に明かりを持たない、薄闇の繭に包まれたような牢獄でのことである。
END